第4回
社会システムへ
2017.02.24
KEYWORD
- 時代感覚を持つ。
- ロジックを大切にしながらも、個人のアイデアによって差別化する。
- 無味乾燥な数字に意味を付与し、社会システムに組み込む。
- 複数の分野や手段が絡むシナジー効果への着目。
- 動的で開かれたシステムの構築。
- 単位の組み替えと統合。
- リソースを均等に分配できない条件下において、プロセスの中で優先順位を見極める。
- 自分自身が属する社会の“部分”を変えるツールを使うことで、“全体”としての社会を変えていこうとするスタンス。
- 設計者、参加者、当事者の次元を同時に捉える。
- 直接的な相手と非直接的な相手が混在する中で、もう一つ上の全体性を設定する。
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GUEST PROFILE
2004年 東京大学大学院 工学系研究科 建築学専攻修了
2004年 経済産業省 経済産業政策局 経済産業政策課
2005年 同 経済産業政策局 産業構造課
2007年 同 製造産業局 日用品室
2008年 同 大臣官房 総務課
2010年 留学(米・コロンビア大学 国際公共政策大学院)
2012年 資源エネルギー庁 電力改革推進室
2015年 経済産業省 電力・ガス取引監視等委員会事務局 取引監視課
2016年 同 経済産業政策局 産業組織課
2001年 東京大学 工学部 建築学科卒業。大手金融機関での勤務を経て
2004年 東京大学大学院 新領域創成科学研究科 環境学専攻修了
2005年 株式会社三菱総合研究所 入社
中央防災会議における首都直下地震避難対策等専門調査会の事務局支援を担当。
2010年 プラチナ社会研究会の立ち上げに参画。行政問題を包括的に解決するプラチナシティを提唱。
2011年に発生した東日本大震災後は、南海トラフ巨大地震・首都直下地震の被害想定業務に従事。
危機管理・防災、まちづくり・都市政策を中心としたコンサルティング・調査業務に幅広く従事し、より安全な社会、より良い社会システムを構築することを目的に業務に取り組んでいる。
川添 第4回は、「社会システムへ」というタイトルです。今回が今までで最も議論の終着点が予想しにくいというのが、私と南後さんの共通した認識です。これまで3回は、最終的に具体的な形の話に落とし込む活動をしている方をお招きして議論を交わしてきましたが、今回は、もう少し社会全体を見渡して、目に見えないシステムの構築に携わっている方が、どのように仕事をされているか伺ってみたいと思っています。
南後 1回目、2回目、3回目は私が司会をしましたが、今回は川添さんに司会を担当してもらいます。というのも、今日のゲストの安藤さんと下村さんは川添さんと建築学科の同期だからです。私としては、同窓会にお邪魔しているような気分です(笑)。今日は、建築的思考が、社会システムや制度設計にどのように応用されているのか、プレゼンテーションをお聞きして議論できればと思います。
PRESENTATION
安藤 元太
Genta Ando
下村 徹
Toru Shimomura
制度設計という仕事
私は経済産業省で働いています。もともと大学の学部で建築を学びまして、大学院では西洋近代建築史を研究し、経産省に就職しました。かれこれ10年ほど役所で働き、電力の自由化や、コーポレートガバナンスに取り組んできました。実は、経産省はいろんな人を採用しています。なぜかといえば、多様なバックグラウンドに根ざした知見が必要であるとともに、色々なバックグラウンドによって異なる考え方の「癖」を取り寄せることが重要だからです。
官庁の仕事には、あまり明確な専門分野というのはありませんが、何となく自分のフィールドというものはありまして、私の場合は国内の制度改正に携わることが多いです。最終目的は国民生活の向上・経済の活性化ですが、それをいかに実現するかが業務内容です。経産省であれば長期的な経済政策から考えますし、厚労省であれば厚労省なりの政策があります。ですから、一個の課題に対して、いろんなアプローチの仕方があることが前提で、いろんなステークホルダーの人と議論して政策を進めていきます。最終的にはクライアントのためになるようなことを考えるので、そういう意味では若干建築家の仕事と似ているところはあるかもしれません。
一般企業であれば、何よりもまず自分の会社の業績や利益がどうなのかに目的が直結するわけですが、私たちはそれを客観視しなければならない立ち位置にいます。我々が最終的に作リ出す成果物は何らかの形の文書です。例えば、シンクタンクにある調査を委託して、情報を集めた上で審議会を開き、議論してから報告書を出す、そういったプロセスを踏んでいきます。そのときに何を考えているかというと、一つは社会的な利益につながるかどうかです。何か変化を起こすと、それで不利益を被る人ももちろんいます。ですから、全体として見たときにどれほどの利益を生んでいるのか、あるいは10年後、20年後にどのような効果をもたらしているのかを考えます。また、最終的には政府の中でコンセンサスを取ること、どうやって合意を得るかという点も大切です。そのためには、いろんな専門家に話を聞いたり、世の中の流れを読む時代感覚を持つことが非常に重要です。建築の世界でも、流行というか、時代の様式のようなものがありますよね。実は政策の世界にもあって、例えば規制について言えば、何かを始める前に事前に規制するという考え方から、だんだんと、最終的にパフォーマンスが発揮されていればよいという考え方に変わってきています。言うなれば、事前規制から事後規制にというような大きな流れがあるのです。
私の個人的なスタイルの話になりますが、論理的に考えてばかりいるのではなく、それに加えて自分自身の考え方、クリエイティビティを持つことを大事にしています。これは政策を考える上で非常に重要です。なぜなら、政策を講じることは、放っておいたらこうなるという状況に対して一種のバイアスをかける行為だからです。ですから、ある時に出てきたアイデアのようなものを頭の片隅に留めておいて、また何か別の場面で使ったりしています。大抵のことは誰かが既に考え、何らか提案されているのですが、その中で本当に何をすると意味があるのかを考えるようにしています。
電力自由化――段階的に進めて大きな変化を
それでは、具体的に2つの事例を挙げてお話します。一つは電力の自由化の話。これは非常に大きなプロジェクトで、電力の供給の仕組みを大きく変えるものです。ですから、一度に変えるのではなく、段階的に進めていきました。まず審議会で議論し方針を決定した後、第1弾の法律が3年前に公布され、そこで改革の基本方針を定めました。そして第2弾、第3弾と、段階的に移行していきました。これについては、来年、再来年に新しい法律ができるのに、なぜ役人がそうしたことを予め決めておくのだという批判もありました。ですが、私たちとしては、一体として変えないと意味が無い政策で、一部分だけ手をつけてもしようがないのだから、このような進め方を採るべきだと考えたわけです。大きな目標を目指して、制度を抜本的に変えていくため、中身を3つにわけて進めましたが、3分の1だけ成立して、3分の2は成立しませんでした、ということになっては困るということです。
問題は、従来の電力会社に加えて、新規参入者をどう入れていけばよいのかでした。基本的には、既存の電力会社と新規参入者の間で利害が対立するわけです。この利害対立をどう説得していくかがポイントになりました。特に論点になったのが、送配電を別会社にすることです。例えばソーラー発電の新規参入者がいても、送配電は大手電力会社が握っており、電力供給のシステム全体で電気の不足や余剰の調整をしています。例えば、ある新規参入者が発電し、お客さんに売っているけれど、一部足りない電力が発生したら、その分は既存の電力会社から買ってこなければならない。あるいは余ったら売らなければならない。日本の場合、これまで基本的に定額でやりとりしていて、電気が足りていても足りていなくても常に値段が一緒でしたが、そこに市場の価格に連動するような仕組みを導入することにしました。つまり、全体として電気が足りないのであればその足りない状況に基づいて値段が上がり、逆に、電気が足りているのであれば値段は下がります。発電者と購入者の需給を安定化させるような価格設定です。これはある種のセルフスタビライザーとして働いていて、モラルハザードを起こしそうな人がいるとその人がペナルティを受けるような仕組みが価格のメカニズムに組み込まれています。制度設計に当たっては、マーケットの需給曲線などからシミュレーションを行って検証し、様々な議論がありましたが、最終的にはこのようなかたちでまとまりました。
企業の在り方のトレンドを読み取る
次の事例は、産業や経済全体に関わることです。日本は海外に比べて経済が低迷している状態が長い間続いています。その根本には、利益率が低いことがあります。株価についても同様です。海外では過去二十数年で、先進国では7倍、新興国だと20倍ほど株価が上昇しているのですが、日経平均株価はむしろ下がっています。90年代から2000年代にかけて、ある時は金融の問題だったり、ある時は円高の問題だったり、あるいはデフレが問題ではないかなど、いろいろな原因が挙げられ、その対策を行ってきました。これらの問題は改善しましたが、それでもなお、企業が稼げないという問題は残っています。その背景に、日本企業のコーポレートガバナンスが上手くいっておらず、「稼ぐ力」を高められていないことが最大の原因ではないかというのが、20年を経た今の状況認識です。
特に大きな問題が、多角化が進んでいる大企業の収益性が欧米よりも著しく悪いことです。これは、20年前とはまったく状況が変わっています。昔はそこまで専門特化しなくても利益が出せたのですが、現在はかなり専門分野に特化しないと海外有力企業との競争に勝ち残れない状況になっています。あるいは、色々な分野を持つにしても、残す事業と切り捨てる事業を意識的に判断して取捨選択していかないと勝てないのです。海外では、こうした場合の対応策の一つとしてスピンオフが頻繁に行われています。これは1つの会社をまったく資本関係の無い2つの会社に分けることを指します。例えば、eBayというネットオークションの会社からPayPalという会社を分離したという事例があります。ある部門を売るのではなく、自社の株を二つに分け、その一つを株主にあげてしまうのです。企業からするとまったくお金はもらえませんが、元の経営者は中核の事業に専念できますし、またスピンオフされた会社は大きな組織の中で経営判断を仰ぐ必要がなくなるので柔軟に意思決定できるようになります。これは非常に効果があるやり方なのですが、税制がネックとなってこれまで日本では実現していません。ですが、なんとか日本で行えないかと考えています。
また、このように会社を分けることで、将来的にその会社が他の会社と合併をする可能性も生み出します。日本は、様々な産業において、海外の企業との競争で負けてきた過去があるわけですが、その典型的なパターンとして、それ以上儲からなくなるぎりぎりのところまで続けて、最後に共倒れになるようなことがあります。これは、それぞれの会社が自分の事業部門を売りたくないと抱えたままにしているうち、いつのまにか事業の価値が下がってしまっているからです。そうなる前に会社の1部門をスピンオフすれば、スピンオフされた会社は小さな組織として自社のことに専念できます。すると、今までライバルだった会社と合併した方が良いのではないかという話にもなり、連合が進むのではないかと期待しています。従来の日本の大企業の考え方からすると、お金が入らないにも関わらず自社を小さくするなんてまったくありえない話です。ただ、最終的に何が企業の価値を上げるのかを考えると、むしろ可能性が開かれるのです。
ロジックを打開するには、個人のアイデアが必要になる
まとめとして、私の仕事がどのように建築的なのかについてお話したいと思います。私が考える「建築的思考」は、時代感覚を持つということであったり、マクロとミクロの制度設計の両方に関心を持ち続けることであったり、ロジックを大切にしながらもそれだけを追い求め過ぎないといったことです。ロジックで見えてくる世界では、どこまで行っても他人と差別化に限界があります。どこかで個人の深層に根ざしたクリエイティブなアイデアが必要になります。このようなことを考えながら現在の仕事を行っていることが、私自身の「建築的思考から」への応答になるかと考えています。
大道芸に感銘を受け、建築と出会う
三菱総合研究所の下村です。安藤さんと川添先生と私は建築学科の同級生で、当時は私も建築のデザインの勉強をしていました。現在はシンクタンクというところで働いていますが、今でも何かしらのデザインを行う仕事をやっていると自分では捉えています。
大学の学部1,2年生の頃は、大道芸をやっていました。高校三年生のときに、渋谷ハチ公前でピーター・フランクル先生が大道芸をやっているのを拝見し、感動してはまったのがきっかけです。彼が大道芸を始めると、そのまわりの空間がいつもとまったく違った空間に様変わりしたのです。1人の人間が周りの人間をこんなにも幸せにしたり、空間を変えたりできるのかと強く感銘を受け、そこから空間をデザインすることに興味を持ち、建築学科に進学しました。このような背景から、建築単体の設計よりは、都市空間や社会に対する影響や社会の課題を解決することに関心を向けた学生生活を送っていました。建築学科の設計課題では、ホームレスの住宅を設計して大学の構内にブルーテントを張り、そこに「ホームレス問題とは何か」といった問いかけの紙を貼るなど、社会運動家のようなこともしていました。そのようなこともあり、大学院では建築よりも広い対象を扱う新領域創成科学研究科の環境学専攻に進学しました。当時から防災に興味を持っていたので、日本が抱えている社会的課題であり当時は解決困難と言われていた帰宅困難者問題に取り組み、修士論文のテーマにしました。このような経緯から、防災を研究対象としつつ、ビジネスとしても取り組んでいる三菱総合研究所に入社しました。
シンクタンクの役割
現在の主な仕事内容は、社会の危機管理とリスクマネジメントです。めまぐるしく変化する現代の社会では、リスクも巨大化、多様化しています。具体的な業務としては、危機管理やリスクマネジメントに関する調査・コンサル、被害シミュレーションや危機管理計画・マニュアルの策定、研修や訓練の企画・運営・評価などを行っています。他にも、新しい社会モデルを検討し、世に提示していく仕事もしています。
シンクタンクは、辞書的には頭脳を資本としてビジネスを行う組織と言われています。業務内容の説明は一言で言い尽せませんが、大学の研究者、メーカーの開発研究者と比較するとがわかりやすいかもしれません。大学の研究者は、社会の発展やより高度な知見を生み出し、社会で実現する準備段階となる基礎的な知見を提示する役割を担うことが多いと思われます。メーカーの開発研究者は、より直接的に財やサービスを提供して顧客満足が得られる価値を提供しているといえます。シンクタンクの研究員は、情報・知の分野における顧客の課題解決と価値実現が主な役割であり、社会課題を発見し、その解決を通じて顧客とともに健全に発展する社会を実現する仕事を担っていると捉えています。
より安全・安心な社会システムをデザインするために
2011年3月11日、我々は未曾有の大震災を経験しました。東日本大震災です。大きな震災とともに津波が発生し、原発の事故も起きてしまいました。震災直後には、それまで起こったことがない帰宅困難者問題も顕在化しました。帰宅困難者問題とは、大きな地震が起きた時に、電車等の公共交通手段が来なくなり、自力で自宅に帰れない人がたくさん発生する事態を指します。30年ほど前から指摘されていましたが、私が学生時代に疑問に思ったのは、家に帰れる人が実際に帰宅することで別の大きなリスクが生まれるのではないかという点でした。当時の自治体は「徒歩帰宅」を推奨していましたが、「徒歩帰宅」を推奨することで逆に生まれるリスクがあると考えたのです。それで、一度シミュレーションして確かめてみようと思うようになりました。
帰宅困難者、つまり大地震が発生した時にその日のうちに帰れなくなる人は、1都3県で約650万人と推計されていますが、徒歩で帰れる人はその倍以上の約1400万人と計算されます。1400万人の人たちが一斉に帰るとどうなるか。何か所か、満員電車状態のように混雑する場所が出てきて危険な状態になるわけです。大学院の修士論文でシミュレーションしてそのような結果を算出しました。三菱総研に入社して実施した中央防災会議(内閣府)の支援業務でも同様の結論が得られました。ただ、道路の混雑度を地図に表示するだけでは一般の人に大変さや危険度が伝わりません。
次の我々の仕事は、シミュレーションから得られた結果を、どのように一般の人にわかりやすく伝えるかであると考えました。道路が満員電車状態では、一度誰かが転べば、将棋倒しや群衆雪崩が起こって大変なことになります。他にもトイレが大混雑する問題も発生します。歩いて帰ることのリスクを具体的に社会にわかりやすく伝えることも、シンクタンクの重要な仕事です。
東日本大震災では、津波浸水想定区域以上に、津波が内陸まで来てしまい、多くの人が犠牲になりました。この経験から社会に求められたことは、現在の科学的知見で考えられる最大限の地震を想定し、被害を最小限にする対策の必要性を示すことでした。東日本大震災後に私が関わった主なプロジェクトは、南海トラフ巨大地震や首都直下地震の被害想定です。そしてその被害想定結果をもとに様々な地域・分野で防災対策の必要性が認識され、予算化されていきました。
地震被害想定では、定量的な被害量を推計したり被害様相を描いたりするだけでなく、被害の低減効果を示して対策への理解を得ることも重要です。被害の全体像を定量的に描き出すことで、いかに深刻な被害が起こりうるか広く伝えることができました。一方で、何をやっても助からないという悲壮感を被災想定地域に与えているという強い批判もありました。大事なことは数字を直視して対策を練ることであり、そのような使われ方をシンクタンクの一員として望んでいます。
では、実際に地震被害想定をどのように進めていくかを説明します。まず、どのような地震や津波が起こるのか、インプットとなるデータを設定します。並行して現在の建物の数や人口を把握し、計算しやすいようにデータを整理します。そこに推計するためのロジックを当てはめて、アウトプットとなる被害量を算出していきます。推計ロジックの検討では、有識者の先生方に確認を取りながら客観性と説明性を持たせていきます。被害想定では説明責任を果たせるかどうかが重要であり、そのためのロジックを鍛え上げていきます。
東日本大震災後に検討した南海トラフ巨大地震の被害想定で試みたことは、被害軽減効果の「見える化」でした。そこで、津波の死者数を算定する推計ロジックに、「避難行動の違い」を変数として組み込みました。このような変数を組み込むことで、きちんと対策を講じれば死者数を80%も減らせると示すことが出来ました。被害想定結果がどんなに絶望的であっても、きちんと対策をすれば劇的に被害を減らすことが出来る(津波避難でいえば、早く逃げ始めれば助かる命が大幅に増える)というメッセージが伝えられます。
被害想定は単なるシミュレーション結果の提示で終わるものであってはいけません。シミュレーション結果を社会に実装していき、より安全・安心な社会システムをデザインすることが重要だと考えています。
社会的な問題を解決し、人が輝き続けるまちづくり
続いて、もう一つ私が取り組んできた「統合型まちづくり」モデル策定事業プラチナシティについてご紹介します。日本は類まれなる高度経済成長を実現し、物質的には豊かな国になりましたが、環境問題の深刻化や少子高齢化が進展し、解決困難な課題として横たわっています。「統合型まちづくり」とは、このような解決困難な課題を世界に先駆けて同時に解決しながら、人がいつまでも輝き続けられる社会を実現しようというまちづくりモデルです。次の世代のためには、むしろ課題を克服することがビジネスになる、また課題が他の国よりも先んじていることをプラスにとらえ、今後の成長エネルギーにしようという考え方に基づいています。
注目したのは、ホリスティックアプローチという手法です。これは、個別分野ごとに最適化するのではなく、課題を同時解決するためにそれぞれの都市機能の相互の関係性に着目し、全体としての効果を高めるものです。この考え方はスウェーデンの都市開発モデル「SimbioCity」を参考にしています。スウェーデンといえば20~30年前に環境問題・高齢化問題で大変苦しんでいた国ですが、今は高齢者を含め皆が生き生きと暮らせる社会を実現しつつあります。日本との大きな違いは、長期的なビジョンを持ってシステム思考で取り組んでいる点です。未来の「ありたい姿」を描き、その上でどのように取り組むべきかを多くのステークホルダーと議論して実現していきます。「SimbioCity」のコンセプトのうち重要なキーワードが、価値(value)という言葉です。合言葉は「少ないものでより多くを得ること」。「Think green, save money」と言う合言葉もあります。従来の発想とは異なる価値を強調し、シナジーに着目することで、より少ない資源で大きな利益を生み出そうという考え方です。潜在的なシナジー効果に着目して成功した例として、廃棄物の熱をうまく使って新たなエネルギー産業を作り出したり、下水の処理と交通システムを結びつけて公共輸送用のバイオ燃料を作り出したことが挙げられます。
我々はこのような発想を参考にしながら、各方面のステークホルダーと議論し、統合型まちづくりのモデル検討を進めていきました。大切なことは、手段からではなく、ありたいまちの姿から逆算して考えることです。ワークショップでは2050年のありたいまちの姿を描いて、それを実現するための2020年の実現像を描きました。その上で、まちを維持・発展させていくためにはどのように回していくのが良いか「運営する仕組み」についても検討しました。そのような考え方に基づいて創り上げたのが「統合型まちづくりモデル」プラチナシティです。
まとめとして、今までお話した中で建築的思考と私が感じた点をいくつか挙げます。地震被害想定の話では、普段見えない様相を描き出し、パブリックに認識させて社会実装していくことをお伝えしました。建築の世界では、裏の動線を見据えた設計と通じる点があるのではないかと考えています。モデルを作ってシミュレーションを重ね現実的な解か吟味することも建築設計に近いと思っています。統合型のまちづくりモデルの話では、複数の手段を考える過程でシナジー効果に着目することが大切だとお伝えしました。建築は本当に様々な分野とつながっており、この点も共通するように思います。
安藤 元太のプレゼンテーションへ
下村 徹のプレゼンテーションへ
TALK SESSION
社会に開かれた動的なシステム
川添 南後さんとは最近いろいろな機会でお会いしています。これは大事なことだと思っていて。建築にとって、社会のあり方は重要な視点を提供してくれます。とくに数年前から、空間を成立させるための背景や、社会のあり方、社会との関係そのものを問い直す機運が高まってきている。その表れとして、コミュニティデザインやコミュニティ論が注目されていて、私と南後さんが一緒になる機会が多いということもそこに繋がっていると思います。ですから、今回はこの二つの領域がどう重なるかが今日のテーマになるのではないかと。
事前打合わせのときに、南後さんがこだわったのがテーマ設定です。「社会へ」にしようとしたら、南後さんがそれは違うとおっしゃった。それは南後さん自身が、社会とか社会学というフィールドをベースに活動しているからこそ、ご自身が考える社会や社会学とは違うと感じているからかと思いました。
南後 僕が打ち合わせの時に違和感があったのは、社会の設計や社会のデザインという言い回しでした。社会学者にとって、なぜ違和感があるかというと、工学系の人たちは、社会を含め、設計やデザインする対象を外部にあるものとして捉えようとするからです。ただし、社会には自分も含まれている。コミュニティもそうです。それらを完全に外部化することはできないし、ましてやコントロールすることもできません。それゆえ、社会の設計やデザインという言葉に違和感を覚えるんです。もちろん、工学的アプローチを全否定しているわけではなく、複雑で捉えがたい社会の仕組みを調整し、方向づけしていくことの可能性と不可能性に関心があります。
「社会システム論」を展開した、ニクラス・ルーマンというドイツの社会学者がいます。ルーマンは「複雑性の縮減」という概念を提示しました。複雑な現象を単純化し、認識可能なものとし、それを他の部分から区別したサブシステムとして捉えたうえで、サブシステムと環境の相互作用に着目しました。全体社会を、機能分化した複数のサブシステムの集合として捉えようとしたのです。システムに、外界との相互作用がフィードバックされる動的で開かれたものと、そうではない静的で閉じられたものがあるとすれば、安藤さんのお話に出てきた「セルフスタビライザー」は、動的で開かれたシステムをどう構築するかという話だと思いました。
安藤さんと下村さんは、所属する組織の性質は異なりますが、建築的思考という物差しを当ててみると、いくつかの共通点が見えてくるように思いました。ひとつめが、「単位の組み替えと統合」です。安藤さんの場合、コーポレートガバナンスの話題から出てきたスピンオフの話。これは、従来、一とされていた企業の組織単位を二つに分けるということです。スピンオフは、そのような単位の組み替えや再統合によって、それぞれの企業の規模の拡大や連携可能性を目指していくことと捉えることができます。下村さんの場合、帰宅困難者問題への対応は、従来、別物と思われていた帰宅困難者と徒歩帰宅者を、そのカテゴリ区分自体を見直し、シュミレーションしたうえで組み替えるということでした。そして、その結果をどうパブリックに伝えていくかにまで取り組まれている。建築家には、説明責任が要求されることが多いですが、後者はその点ともつながります。
二つめは、「部分と全体の相互作用」です。安藤さんは、電力システムの改革を3段階に分けて進めることによって、部分だけではなく、それがどう全体を変えていくのかを視野に入れなければならないと指摘されました。下村さんが話された「統合型まちづくり」も、それぞれの分野の最適化だけではなくて、全体にどのようなシナジー効果があるかを考えなければならないということでした。どちらも、「部分と全体の相互作用」をどう考えるのかということだと思います。
制度設計と建築設計の違いと共通点
南後 安藤さんのお話の中に、「制度設計」という言葉が出てきました。制度設計と建築設計の概念やアプローチがどう重なり、どう重ならないのかが今日の論点のひとつになるかと思います。建築もステークホルダーが多いですし、中長期的な設計のプロセスを経ていく。考慮しなければいけない要素も複雑で、評価の基準や尺度もたくさんあるわけですよね。
安藤さんの制度設計に関する話を聞いて意外だったのが、ロジックを積み重ねていくことだけではなくて、差異を生み出すというか、安藤さんの個性、建築家でいうところのクリエイションを自分の仕事の中に組み入れていることでした。制度や法は、これまでの蓄積をどう書き替えていくかが常に問われますよね。建築も同じで、白紙から何か立ち上げるわけではなくて、敷地条件とかクライアントの予算とか既存のコンセプトなどがあって、そこから紡ぎ出していく。
そこでお聞きしたいのが、単なる制度いじりに終始しているものと、革新的な制度設計とは、どう線引きすることができるのかです。建築の場合は、これまでにない革新的なものに一定の評価が与えられますが、制度設計の場合、同じような飛躍が求められるわけではないように思います。また、制度設計にはどういう方向性があるのかについてもお聞かせください。
安藤 制度設計と建築設計を比較した場合、今お話しいただいたようなことはだいたい当てはまると思います。制度の方には最適解を取りやすい場合もあります。例えば、車の助手席のエアバッグ設置を義務化するべきかどうかについては、事故減少率などのエビデンスから義務付けることを正当化するということができます。公共工事、高速道路を作るといくらかかるが社会的便益がそれを上回るといった分析も、同じ類いの話です。ただ、多くの場合は最適解をいきなり求めることはできません。むしろなかなか求めにくいことが多いとも言えます。
建築設計と制度設計に共通しているのは、最初に全体を貫くコンセプトがないといけないことです。クライアントが求めているものや何か別のコンセプトがあって、それに応じて作っていくものが変わります。ご質問のあった、単なる制度をいじるのと革新的な制度設計の違いで言えば、多分そこには相当程度の差があります。単なる書き換えもある一方で、本当に重要なことには相当なリソースを投じないと変えていくことはできません。違いは説明しづらいのですが、どれだけリソースを投じられるのかの違いはとても大きい。大胆に変える場合は、それ相当に大反対をする人がいるわけです。その反対をする人たちと何とか調整して突破しないと、変えていけない。その時、そこまでのコストをかけ、リスクを取ってでも突破するべきかどうかを考えなくてはいけません。世の中にある制度改正の多くは、細かい制度の書き換えであり、本質的に重要なものはそんなにはありませんが、それを実現することは大変な労力を要します。行政や政治がもつリソースには限りがあり、全部に対して均等に使うわけにもいかないので、本当に大事なものを見極めることが必要です。例えば、トップの任期が長い、例えば政治的には長期政権だといろいろなことができますが、一年で政権が変わるようだと革新的なことはなかなかできないと感じます。
南後 世の中がどう反応するのかわからないということを考えると、予測不可能性とか計算不可能性を織り込んだ上で制度設計しなければいけないと思うんですね。その時に配慮されていることや実際にシミュレーションで行っているのはどのようなことですか。
安藤 理想的には、エビデンスベースドな政策立案をちゃんとやることだと思います。海外の政策当局はかなりきちんとやっていますが、日本ではリソース的にも行政の文化的にもなかなかそうなっていません。次善の策としては、若干保守的ですが、何らかの制度改正をやっても本当に致命的な状態にはならないということを一つの目安として見るべきだと思います。さっきの電力自由化の話でいうと、これをやっても停電が起きないと自信を持って言えるかどうかといったことです。スピンオフの話にしても、企業に強制するものではなく、やるかやらないかは企業次第であり、制度が変わることで何らかのリスクが生じるとは考え難いということになります。
「統合型まちづくり」の主体は誰か
南後 下村さんは「統合型まちづくり」に関して、分野ごとの最適化ではなく全体の関係性の効率を見ていくとおっしゃっていました。その場合、それぞれの分野は、完全にフラットな関係にあるのかどうかという点が気になります。一つめの質問は、それぞれの分野の優先順位をつけるのかどうか。二つめの質問は、抽象的で答えるのが難しいかもしれないですが、「統合型まちづくり」とは、どういう主体が何をもって統合するのかについてです。
下村 「統合型まちづくり」は、全体としての最適解を探していきましょうというところからスタートしています。優先順位はその思考の過程に出てくると思いますが、あえて手段を検討することの順番を下げているのが、このアプローチの大きな特徴です。手段を優先して進めようとすると、ある特定の会社が持っている技術を使ってまちづくりをしようと考えがちです。そこで、統合型まちづくりではそこに住む人々が最大の主人公であるという考えをベースに、ありたいまちの姿を最優先に考え、今ある課題やリソースを洗い出し、それらをどう最適化していくか、またありたいまちの姿を実現するために最適な手段は何かを考えます。このような優先順位の付け方や検討手順を重視しています。
二つめの質問、「統合型まちづくり」の主体が何をもって統合するかについてですが、モデルとしたスウェーデンの事例ではシンクタンクが主体となって各業種のメーカーを統合しているのが特徴です。具体的には技術系コンサルタント会社が、エネルギー会社、自動車メーカー、ハウスメーカー、水資源管理会社など、いろんな会社を束ねて一つのコンソシアムを形成しています。
南後 安藤さんの場合、アウトプットとしては文書に残すことが挙げられていましたが、下村さんの場合のアウトプットは何ですか? 建築のアウトプットには、まずは図面があり、最終的に出来上がった建築物があります。シンクタンクの仕事における図面や建築物に相当するものはどういうものでしょうか。
下村 わかりやすいアウトプットの例は、調査報告書です。私が勤めているシンクタンクでは官公庁など国の行政機関がクライアントになるケースが多く、国が制度設計をする前の段階の各種調査を我々が担うような場合は調査報告書という形で納めることがほとんどです。一方で、最終的にその依頼主にとって有益となる情報を提供できれば、それがアウトプットということもでき、民間企業向けのコンサル業務では調査報告書という形で納めないことも多々あります。アウトプットは「顧客にとっての価値」であり、紙の報告書である必要はありません。
目指される「良い社会」とは何か
南後 建築は、素材、構造、仕上げなどを単に足した総和としてあるわけではなく、部分を統合していくことによって出来上がるものです。建築においても「部分と全体」は固有の問題としてあると思いますので、川添さんの方からもご意見をお伺いできれば。
川添 建築における「部分と全体」は永久不変のテーマであり、設計のスタンスはその定義によるとも言い換えられます。部分を操作することの積み上げが全体になって、その全体というものは決して直接的に触ることはできないことが暗黙の了解です。そういうロジックの中で全体と部分の話が出てくると思います。
社会学と工学の違いで言えば、工学的な見方が社会を操作対象としてみる点が、社会学や社会学者との違いだとおっしゃっています。南後さんとよくこの話をするのは、何かプロジェクトを一緒にやるとしたらどういうやり方があるのかを話し合う時です。我々建築分野の人は、社会学の人たちに“あるべき社会の姿”を提示してもらって、そこに対して建築ができることは何かをいつも考えてしまうのですが、南後さんは、社会学というのはそういうことではなく、自分がそもそも社会の中にいて、それを直接的に操作できないとおっしゃっています。しかし、今日のお二人は、やはり社会を操作対象というか操作可能なものとして見ている点が共通していると思いました。安藤さんも電力自由化のコストをどう設計するかは、結果的に誘導していく像を思い描いているからできることですよね。下村さんの津波避難のロジック検討の話では、元々の被害状況と死亡者数の関係に対して、避難行動の違いというファクターを提案して、こうすれば死亡者数が減るからこうしていきましょうと誘導する指標をつくっています。自分自身が属する社会の“部分”を変えるツールを使うことで、“全体”としても社会を変えていこうとするスタンスは、建築家の振る舞いと繋がります。そこで直面する本質的な課題は、「良い建築って何なのか」ということです。普遍的な答えはなくても、プロジェクトごとに理想とする状況があって、そこに辿り着くために部分の操作をしているはずです。すると、お二人が描いている「良い社会」とはどういうことか。それは誰かが決めることなのか。部分を変えながら、どういう状況をゴールだと思い描いるのかについてお聞きしたいです。
安藤 私が政策を考える中で描く「良い社会」は、比較的世の中でコンセンサスがあるものであることが多く、例えば経済が長期的に成長していくことは良い社会と言えるでしょう。これは、その方が多くの人がよりハッピーになる確率が高いからだと考えます。他方、他の政策分野では、何が良い社会かについてコンセンサスが得にくい分野もたくさんあります。例えば夫婦別姓とか、カジノ誘致などは、複数の価値観が相反する面が強いです。最近だと原子力政策もそうですね。最終的にどちらの社会が良いかは、政治の話に行きつくことが多いように思います。そう考えると、行政で働く僕自身が描く良い社会の基準は、通常はコンセンサスのある範囲内で考えていくものです。川添さんのお話にあった、社会を誘導するという発想はあまりもっていなくて、社会に存在する様々な行動を誘導したい気持ちの方がありますね。企業であれば、それぞれの企業の行動や投資の判断みたいなことを誘導したい。でも、企業文化とか日本企業らしさといったものまで変えたいとは思っていません。
川添 社会の中の行動を誘導していくとしても、結果的に生まれてしまう社会の全体像があるはずです。部分に対する振る舞いを変えて、その総体としての社会とはもう成り行きでできあがるものなのでしょうか。
安藤 部分への振る舞いによって総体が変わった時に何が起きるかは考えています。さっき話が出たコーポレートガバナンスを例に挙げると、日本の会社はこれまでサラリーマン経営者が経営してきたが、これからは株主や投資家という資本市場からのプレッシャーをもう少しダイレクトに感じながら経営しなくてはならないでしょう。その方向にどんどん進むと日本の企業社会は米国型の企業社会に近づいていくかもしれません。それが良いのか悪いのかについて、時々立ち止まって考えるようにしています。
川添 避難の話で言えば、迅速に逃げられる方が良いというゴールが一致しています。でも、ほとんどの状況においてゴールは見えないことが多いですよね。
下村 プレゼンでは、安全安心を実現することが仕事であると言いました。一方で、より良い社会を構築することも仕事の目的です。わかりやすいゴールで言えば、帰宅困難者問題にしても地震被害想定にしてもできるだけ被害を減少させて安全安心を実現するという目的を満たすように進めれば良いわけですが、それだけで社会全体の最適化を図れるかというとそうではありません。津波を完全に防ごうと高い堤防を建てようとすれば、膨大なコストがかかりますし景観が損なわれます。「統合型まちづくり」では、より良い社会を構築するまちづくりとは何かを突き詰めたと紹介しましたが、それは皆が納得できる社会が一番良い社会なのだろうと考えています。納得とは、ステークホルダーとして話し合い、課題を高い次元でクリアすることだと考えていますが、それをなかなかできないのが今の日本の実情だと考えています。それぞれのステークホルダーが領域を切りわけ、その分野で部分最適化することで満足しているところがあります。そうではなくて、隣同士や全体で手を組めるところを目指していくとより良くなるのではと考えています。
社会を設計するのではなく、社会を観察する
川添 建築家も常にベクトルを未来に向かうことに置きがちです。今の話もそのスタンスは共通していると思います。ただ、南後さんと話していていつも感じるのは、そのような未来へのベクトルを無視しているわけではないにせよ、専門家としてそこにきっぱりと線引きをされるなということです。建築史の分野は過去のことを見ますけど、建築という分野全体から見れば、今がどういう立ち位置にあって、これからどう変わっていくかを考えるために建築史があります。そういう意味では、社会そのものを専門とする南後さんから我々の楽天的な振る舞いはどう見えるのですか。
南後 楽天的とは思っていませんよ(笑)。設計とは、何かあるべき姿や未来があって、それと今とのギャップを埋めるための解として捉えられることが多いですけど、そのあるべき姿自体を断定することは難しいですよね。ただし、たとえばステークホルダーをめぐる利害関係など、プロジェクトの前提や条件となる事柄に関しては 、社会学者も一緒になって考えることができるだろうと思います。
建築とはあくまで社会の網の目に組み込まれているわけです。社会の網の目の中から技術なり構法なりが生まれてきて、それらを社会に投げかけると、いろいろな反応が返ってくる。それらをもう一度フィードバックして、また投げかけて……と、絶えず再帰的にどのような現象が起きているのかを考察していくのが社会学のスタンスです。計画や設計というものに自分たちが関与してしまうと、中立性の担保というのが難しくなります。社会学者は、観察することを職能のひとつとしています。だからこそ、計画や設計に対しては、距離をとってきました。ただ、川添さんがおっしゃるように、ある地域に入り、持続的な関係をもちながら、しかも自分が関与をしながら何かアクションを投げかけることによって、中長期的に観察していくスタンスもあると思います。社会学者としてという、肩書きの枠を外して考えれば、計画なり設計へ携わることに関心は持っています。
川添 参加者として観察することもあるというお話ですが、建築の分野には現場があります。きれいごとではいかないこともあって、設計図がそのまま出来るわけではない。そこで発揮される力というものも必要になってきます。下村さんはそういうプロジェクトも多いかもしれませんが、安藤さんは、現場に対する距離感はどういうものでしょうか。そもそも現場という概念が存在しますか?
安藤 行政にも一種の「現場」はあります。今現場と言ってイメージしましたのは、建築で言う現場とは意味が違うかもしれませんが、ステークホルダーとの関係の調整の場面です。例えば電力の自由化を例に取りますと、電力会社から各家庭に電力が自由化されますというお知らせを配るときに、配るビラに何を記載するかを必死で電力会社と調整したりします。他にも、新居に引っ越すとドアノブに電力会社からの契約手続を説明した書類が掛けられていて、そこに記載された電話番号にかけると電気が通るわけですけど、自由化後もそれで良いかという議論もありました。今のやり方だと既存の電力会社に連絡するのが当たり前になってしまうし、他の電力会社から買いたいという人はどうすれば良いのかが案内されていない。かといって、書類が何も無いとそれはそれで困ってしまう。この中でどうすれば良いかを企業の人と一緒に考える、そのくらいの現場感というものはあります。ただ、そこまで突っ込んだやり取りはしますが、最終的にプレーヤーではないことはすごく感じます。それは、先ほど南後さんからお話のあった、社会学者として社会に入り込んで観察することとも少し関係していると思います。政策をやっている人の多くは、ちょっと引いた立場で設計するのですが、中には入り込む人もいますね。いつのまにか、自分もプレーヤーの当事者のような意識になった人もいます。そういうやり方もありますが、その場合ちゃんと中立的な立場で制度の設計ができるのかという論点は出てくると思います。
揺らぐ「全体性」
川添 面白いですね。設計の話と、参加という話と、当事者という話がそれぞれ出ていて、同じような問題を議論していても、立ち位置が違えば関係とか距離感が変わるのかもしれません。そのような立場の違いとして、今日は会場に森ビルの植野さんがいらっしゃっていますのでお聞きしてみたいと思います。
植野 三人とは同級生でして、同じ時代に建築を勉強していました。今の仕事はまちを作る仕事ですが、自分の中にもすでに話に出てきたようなことに近い問題意識があります。良いまち、良い社会とは何なのか、そのベースとなっている価値観をどう設定するかは、一民間企業としては非常に難しいです。まちづくりは通常でも10年20年かかる仕事なので、20年後の価値観がどうなっているかを一応想像しながら仕事をしたいと思っています。そういった今の価値観とは異なるだろう先の社会を、企業やステークホルダーと協働しながら設定するのに頭を悩ませています。
川添 「全体と部分」の話に戻すと、そもそも全体性が揺らいでいるように思います。安藤さんは、例えば企業が個別の最適解を追求することから一段階上の次元で全体を誘導するとお話されていた一方で、良い社会とは何かについては「経済産業省的には」というもう一回り大きい全体と部分の関係が出てきます。建築家についても同じようなことが言えて、職能としては良い建物を設計できればいいわけですが、それを超えた仕事をしたいわけです。それは直接的なクライアントという関係以上に、建物ができて街が良くなってほしいという発想もある。そのような全体性の設定の揺らぎが、私たちの立ち位置を迷わせている。直接的な相手と非直接的な相手が混在する中で、もう一つ上の全体性をどう定義するか、もしくはそれは今回の言葉で言うと、どう社会を考えたらよいかに問題意識があるのだと思います。それがこの第4回目の「社会システムへ」というテーマの通底音ではないか。特定の全体に寄与していると思っていたら、もっと上の全体が見えてしまった状況の中でどうするか。
南後 大規模な都市再開発や建築計画において、これまでのトップダウン的な流れがうまくいかなくなってきて、関係者を広く募り、協議をしながらコンセンサスをとっていくようなガバナンスの流れが出てくるようになりました。ただし、ボトムアップ型ですべてうまくいくわけではなく、トップダウン的に意思決定を進めることが重要な局面もあります。
全体性を、厳密な意味で設定したりコントロールすることは不可能でしょう。ただし、それと、どう向き合うかは大事です。部分と部分の関係性自体を組み替えていく個々の作業自体が、単なる足し算以上のものとして全体性へとフィードバックしていく回路を保つこと、あるいは、予測不可能なことが起きた時に、それをフィードバックできるようなシステム設計になっているかどうかが重要ではないでしょうか。
川添 デザインについて、創出(クリエイト)される時代から、生成(ジェネレート)される時代だと、南後さんは書かれていたと思います。そのことと、今の話に置き換えれば、部分と全体の関係そのものが宙ぶらりんになりつつも、それらの関係を考えていくことが重要だという視点には共通点があると思います。
南後 それらの関係を下支えするようなシステムを考えていくことが重要だということですね。
プロジェクトの最終形はフィードバックによって変わるか
川添 今回のレビューをお願いする隈太一さんがいらしてます。一言お願いできますか。
隈 建築家が何か作る場合に、あらかじめ理想像を念頭に置いてやっている人はあまりいないような気がします。むしろ作る中で出てきたものに影響を受けて、ディベロップしていく。制度やシステムにもそのようなことはあるのでしょうか。また、もしこれまでにない場合は、こうすることで可能になると思いますか。
安藤 あるかないかで言えば、あります。政策をつくる際にも、審議会を開いたり、さまざまな人たちにヒアリングしたりする機会からフィードバックを得ることが多いです。つまり、役所がある仮説を設定して、それをいろんな人に当ててみるんですね。もう少し長期で、実際に制度を変えてみたときにどうなったのかのフィードバックを得て、制度を改正するとういこともあります。
隈 経済的にその効果がなかった場合というのはわかりやすいと思うのですが、それ以外の問題点や改善点が見つかったケースはありますか?
安藤 わかりやすい例でいうと、太陽光発電などの再生可能エネルギーを買い取る制度がありますが、これは制度を導入してみたら、細かい制度設計の部分で課題が出てきたため、制度を改善する対応をその後行ったというものがあります。
隈 そういうノウハウは蓄積され、みなさんがリファレンスできるものとしてあるのでしょうか?
安藤 あまりないですが、大きな失敗はマスメディアに出て、多くの人の記憶に残ることはありますよね。例えば、しばらく前にPSEマークの問題というのがありましたが、これは規制を変えるときに中古家電の流通を考えていなかったことが、問題が生じる原因の一つでした。そういう失敗は次の参考となります。
下村 我々は提案したものに指摘をいただき、直してから委員会にかけて、というプロセスを繰り返すのが基本的な仕事のスタイルです。被害想定にしても、過去の被害想定の見直しが行われて、常に最新の研究成果を参照しながら進めます。被害量の推計についても、従来の式ではなく、スーパーコンピューターを使って複雑な解析を行うことができるようになってきています。そうなると、今までとは全然違う次元でシミュレーションを行うことができるようになると思います。
複数の分野を統合する能力
南後 下村さんは、「統合型まちづくり」の統合の主体のひとつとして、シンクタンクを挙げられていました。環境、構造など、いろんな専門家が集まって議論して進めていくのだと思いますが、その調整役に求められる資質とはどういったものなのでしょうか。それぞれの専門領域での判断は専門家に任せて、後で調整するのか。そうでないとするならば、それぞれの専門領域間の関係をどのように把握し、全体の中に位置づけていくのでしょうか。
下村 調整役は、コンサルタントや官僚に求められる資質の一つだと思います。全体を俯瞰して取りまとめる能力は、いわゆるジェネラリストがもつものです。会社の社長は、各専門分野でナンバーワンである必要はなく、全体を見渡して取りまとめる能力が必要です。調整役としてのコンサルタントに求められる能力の一つは、統合性です。欧米ではそういう人が実際にまちづくりの主体となってきています。日本ではまちづくりの主体はディベロッパーであることが多いですが、その垣根はどんどんなくなってきていると思います。
川添 今日の議論で、僕自身「全体性が揺らいでいる」ことがとても大きな気づきになりました。どの仕事にも区切りや設計する対象や範囲が明確にあるわけですが、そこをどう超えていくかというのが同時代的なテーマだと思います。しかも超えていった先には、どう統合するかを考えなければならない。今回のゲストであるお二人は、明確で固定的な手段がないからこそ、そもそもの全体性の設定の仕方によってアプローチが変わり、そのなかで仕事を進めていらっしゃいます。この点が、建築家のロジックと同期するポイントかもしれないと思いました。
REVIEW
ソフトなプロセス
システムとは、ものをつくることと違い、かたちが目に見えないため、その輪郭がわかりづらい。しかし、大きな目的の設定、具体的なプロセスなどは、「設計」と呼ばれるものには、対象の違いを超えて存在する点である。この点を意識して、今回の安藤元太さん(総務省)と下村徹さん(三菱総合研究所)のお話しをうかがった。
安藤さんは、学生の頃から、私的権利と公的権利の関係性に興味があり、建築と社会システムの設計においては、どちらその要素が含まれる。つまり、どちらも、最終的にじぶんごとではないとも言える。また、他の共通点としては、一つの課題に対していろいろなアプローチがある点であるとのことだ。それに対して、やはり建築との大きな違いは、アウトプットで、システムの設計の多くは、文章というかたちで残されるそうだ。また、プロセスにおいて、建築設計と異なるのは、その影響力で、安藤さんのおられる総務省では、政府との関係性調整だけでなく、社会規模での、さらに長期的な影響など、スケールが大きいならではの懸念事項と言える。
具体的に、まず「電力自由化」の事例の紹介があった。この例では、料金の抑制、安定供給、需要家の選択肢、事業者の事業機会の拡大という、目的がはっきりとしていたが、やはり、既存の電力会社をどのように説得するかという問題が大きかったそうだ。
また、もう一つの例としては、日本企業の利益率の低下の原因と考えられる「コーポレートガバナンス」に対して、アメリカなどが一般的な「スピンオフ」と呼ばれる、企業を複数に分割して、意思決定を迅速にしたり、他企業との連携をしやすくするという方法を、日本に積極的に取り入れるというものだ。それは、これまでの税制を変更することで理論上は可能になるが、日本の企業の文化を変えることなどでなかなか容易でないとのことだ。
続いて、下村さんに、シンクタンク「三菱総合研究所」における、情報や知識をベースとした課題解決や価値実現のお話をうかがった。具体的に、大学院時代からのテーマとして「帰宅困難者問題」や「地震想定被害」のプロジェクトについて説明があった。プロセスは大きくは、これまでの災害時のデータを集め、今後の対策となるようにしていくが、それをより多くの人に届けるかという部分が鍵となるそうだ。また、「想定外」という状況は決して許されるものではないが、一方で、起こりえるかもしれない災害の現実を、ただ突きつけるだけでは問題の解決とはならず、逆にただ恐怖心を煽ってしまうだけのことになりかねない。このように、シンクタンクの仕事は、研究とは異なり、社会に実装する部分が非常に重要であると言えそうだ。
そして、現在、下村さんが行われている、まちづくり/都市計画のプロジェクトでは、環境と行政の問題を同時に解決するというアプローチ(Holistic Approach)で取り組まれているそうだ。 環境と行政の統合の鍵となるのは、ありたい街の姿から逆算をするということだそうだ。社会への実装をスムースに行うためには、クリアなビジョンを提示することが有効であると言える。
これらのプレゼンテーションに対して、南後さんの指摘は、社会システム設計と工学との違いであった。工学は、あくまで対象が外部にあるのに対して、システム設計では対象を内部に持つ。つまり、システム設計とは、研究と実践を内包したプロセスと言えるかもしれない。この点では、建築設計も実践を前提としているため、工学よりも社会システムの設計に近いという気がする。
また、建築設計と社会システム設計の共通点として、最適解がないところが挙げられる。そして、その良し悪しを評価することも難しい。ただ、そこで安藤さんが言われていた、「全体を貫くコンセプトがないといけない」という発言は、建築はもしくは社会システムの設計を評価する上では重要である。つまり、はじめに設定した目的をどこまで達成できるかということである。たしかに、安藤さんの話されていた、二つのプロジェクトはともに目的がはっきりしており、そのプロセスはとても一貫されていた。
しかし、一方でそこで、疑問となったのは、その目的の前提となる、つまり、大目的のようなものはあるかというこのである。 それに関連して、下村さんは、まちづくりに際しての優先事項は?との南後さんの質問に対して、「住民のニーズによって変化する」と答えていた。まちづくりという、多様な評価基準が設定可能な課題に対して、いつも固定された優先事項や明確な目的を持つことは難しいかもしれない。(建築でも、目的やコンセプトは一言で言えないケースが多い。)むしろ、その現場に対峙して、優先事項や、目の前に設定可能な目的を探していくことに、設計者のセンスや独自性が最も現れるのかもしれない。
さらに、安藤さんは、川添さんからの「いい建築のように、いい社会があるか」との質問に対して、社会の理想像については語らず、「じぶんの仕事は、社会そのものを操作するのではなく、社会にある色々な行動を誘導したい」と言っていたのが印象的であった。それは、議論の中でもでた、南後さんの「『あるべき社会』に近づけるのは無理」という社会学へのスタンスとも近いのかもしれない。
建築設計は基本的に建築というハードなものを設計する以上、プロセスの終わりが明確に見えやすい。そのため、「いい建築」という感覚を共有することは容易である。しかし、社会とは目に見えないし、時間の切れ目も探しづらい、それ故に「いい社会」とはなかなか定義できない。もちろん、社会システムの設計においても、明確な目的を持ち、それに対して、制度をつくりハードに対応していく部分もあるだろう。ただ、大目的の部分は、あくまでに「なんとなく」に保ちながら、社会にその答えを見出すソフトな設計方法の存在に、今回のお二人のお話を聞いて気付かされた。
ここから学んだことを、再び建築設計に照射すると、必ずしも、コンセプトの一貫性だけでなく、その建築が誘導する行為、反応によって、「いい建築」を評価できるとおもしろい。そこには、ハードな建築の限界を、超えるきっかけすらもあるような気がする。
建築家。
1985年東京生まれ。
2014年シュツットガルト大学マスターコースITECH修了。
2016年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了。
同年秋より、日本と中国を中心に設計活動を開始。
素材の可能性、組み合わせによる空間、場所のデザインを専門とする。
代表作に、カーボンファイバーと伸縮性の膜を用いた、新素材の組み合わせによるパビリオン「Weaving Carbon-fiber Pavilion」、自身が運営するレンタルキッチンスペース「TRAILER」のインテリアデザインなど。